この宇宙と私

目次

  • はじめに
  • 誘いのはじまり
  • 量子力学という世界
  • 周波数というキーワード
  • アーシングの必要
  • 他者の視点とその他の視点
  • 多次元ワールドへようこそ
  • おわりに

[[[ はじめに ]]]

早いもので、2017年ももう2月が終わろうとしています。昨年の11月の頭に突如、体のコンディションを崩し本当に多くの方にご迷惑をおかけしました。お陰様で、今は割と歩くことが出来るようになりました。残念ながら、走ったり、跳ねたり、屈伸したり出来るようになるのはまだ先のようです。きっとまだまだデトックスが足りないんだと思います。冒頭で吐き出したいことが沢山あるといいましたが、きっとここにこれから記す振り返りも、「今為すべきこと」なんだと思います。


[[[ 誘いのはじまり ]]]

FB上でもお騒がせした、11月の悪夢。二本足で起き上がれるようになるまで3週間。再び街を歩けるようになるまで更に2週間かかりました。その間に色々なことがありました。本当に多くの約束を果たせなかったこと。ただ途方に暮れるのも嫌なので映画を何本も観たこと。再び、オステオパシーの話を聞くことが出来たこと。ただでさえ感謝しきれないのに、またまた両親のお世話になって負担をかけてしまったこと。両親と一緒に食卓に着くことができたこと。愛犬達と過ごす時間が愛おしかったこと。きっとまだまだ得たもの得られなかったもの、あると思います。そんな数え切れない出来事の中でも特に印象的なのは、映画『インターステラー』との出会いです。思考がグルグルして追いつかない。途中、中だるみがあるものの、その題材とシナリオは猛烈なインパクトを私に与えました。

映画『インターステラー』
https://warnerbros.co.jp/home_entertainment/detail.php?title_id=4366/

重力、宇宙、光、闇、風、メッセージ、多次元…

正直、この映画のメッセージを私は受けきれていないかもしれません。なにせ、まだまだ修行が足りない。


[[[ 量子力学という世界 ]]]

基本的に、私はずっと日本のクソ教育システムに甘んじたまま、「文系」というクラスに属し、数学は苦手、授業中は夢の中というティーン時代を過ごしました。もっとロックな勇気があれば、違う世界に飛び出せたかもしれないと思うと悔しいです。「文系」の中でもテストの点数が取れなくて偏差値が低いとされる「文B」クラスに属していた私は、「理系」のエリート集団が受ける放課後の数学補講に参加していました。数学が苦手なはずなのに。

(←当時の友人達は、何故私がそこに居たのか不思議だったことでしょう)

そう、私は苦手だけど好きなのです、理系の学問が。

もし、自分に子供ができたなら、真に意思を尊重した育て方をしたいです。

さて、成績振るわず睡眠学習と称して寝すぎた結果、半ば障害となって体をコントロール出来ず余計に勉強できなくなってしまった文Bの私ですが、学問のお話は大好きなのです。そんな私に量子力学の話をなさったのが、オステオパシーの先生です。その日は、ちょうどあの映画を観た日でした。

『オステオパシーについて』 過去の投稿より
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1125063950881588&set=a.212127352175257.60480.100001339822305&type=3&theater
『人が動くということについての徒然』 過去の投稿よりhttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=1132711260116857&set=a.212127352175257.60480.100001339822305&type=3&theater

掻い摘んで端的に言いますと、

「この世の全ては果てしなく小さい粒で出来ており、それがザワザワして成り立っている」という話です。そして大事な補足として、それには「感情」も含まれるというのです。日本のクソ教育システムの中で育った皆さんの中にはここで話に付いてこれなくなる人がいるかもしれませんが、大丈夫です。素直に全て受け入れて聞いてください。あなたには「こころ」がありますか?ありますよね、きっと。


[[[ 周波数というキーワード ]]]

この世の生物ひとつひとつの感情まで「物質」である。と聞いて困惑する人はちゃんと素直にこの文章を読んでくださいね。それでも腑に落ちなければ、内臓が弱っている可能性がありますから、オステオパシーに行ってみてくださいね。「腑に落ちる」という感覚が中々持てない人は、内臓の状態が悪く「落ちる」のを邪魔しているそうです。「腹が立つ」「頭に血がのぼる」というのも、体内の循環が上手くいっていないことによる文字通りの現象らしいです。

さて、話が逸れましたが、先生の話の中に周波数という興味深いキーワードがありました。この単語は私の理解を急速に深め、より関心を抱かせるものになった気がします。何行か前に掻い摘んで端的に言ったところで、粒がザワザワしていると言いましたが、そのザワザワ具合を表したのが周波数です。特殊な道具を使わないと静止して見えるものも実は揺れているんです。(ってよ!私も実際に見たことがないから信じるしかない!)全ての物質にはその状態ごとに決まった周波数があって、その中に「感情」も入るんです。喜はこの揺れ方、怒はこの揺れ方、哀はこの揺れ方…ってね。どうですか?腑に落ちましたか?私はこれでなるほど!って思ったんですよね。

上にリンクを貼ったので、前の投稿をまだお読みでない方は一度流して読んでみてください。オステオパシーの先生は施術をする時、たまに患者さんのトラウマが見えることがあるらしい、と書いてあります。(自分で自分の話を引用チックに話すという妙な感じ…私自身整理が必要ということもあるので、嫌いでなければお付き合いください)それはなんでかとういうと、いやーな感情の周波数を持った物質が体内に残っていて、それを解そうとする時にフラッシュバックなど影響を受けてしまうんですね、きっと。ちなみに、私はまだトラウマについては触れられていません(もう先生は気付いているかもしれないけれど)が、「電磁波溜まってますね~」とは言われてます。

負の感情の遺物ではないけれど、体内にあるべきではない老廃物の一つである電磁波。私はそれを自分でデトックスする方法はありませんか、と先生に尋ねました。すると、「お風呂に長く浸かるのがいいですよ。あと、祈祷とか?あの、祈祷の儀式でやる白いワサワサしたやつ(←幣・ヌサというらしい)を振るじゃないですか、あれをすることによって、周囲の空間に絶妙な周波数の物質ができて体内に溜まってる悪い物質がなくなるんですよ」私はこの返答に大変驚きました。実際のところ、幣が変質させた物質が溜まっている物質に当たって飛び出るのか、浸透圧の作用のように滲み出てくるのか、詳細は分からないけども、妙に納得がいきました。

「あ、あと大事なのがアーシングですね」




バリのビーチにて。ある1日、私は朝から日没まで砂浜にただただ立っていた


[[[ アーシングの必要 ]]]

アーシングとは素肌で地球に触れること。摩訶不思議な言葉ではありませんか?地球に触れることを指す言葉なんて。人間が暮らしを営むのに、肌で大地に触れることが定義されるなんて。当たり前中の当たり前…でしょうか?特に都会に住んでいる皆さん。私は自分の生活を振り返った時、ほとんど大地や植物に触れていないということに気が付きました。代わりに電子機器ばかり手にしています。一日中。ゾッとする現代人生活。

昨年の9月に、私はバリ島へ視察に行きました。1日一人でのオフがあったので、なんとなくビーチに出たのですが、パラソルとベッドを借りるのもなんだったので、ずっと水打ち際に立ってたんです。上記の2つのリンクには、その時考えていたことを書いていたり、その日の写真を使っています。

特に思考していたのは、「ものがある」ということについて。砂浜にはいろいろなものが落ちています。葉っぱ、石ころ、岩、ゴミ。そして、私。波が打ち寄せます。辺りの砂の表層を撫でるように引いていく波。撫でられた浜は穏やかです。一方、私の足元は物凄い勢いで砂たちが攫われていきます。石ころの下も、ペラペラの葉っぱの下でさえも。「重さ」があることによって地球の変化のスピードと内容が変わるのです。だから何⁉︎って話かもしれませんが、こういう些細な発見が私は好きです。Instagramのリンク先をご覧ください。

知らず知らずのうちにしていたバリでのひとり遊び instagram過去の投稿より
https://www.instagram.com/p/BKnuQbDguPP/

バリはスミニャックのビーチには表層の明るい色の砂と、少し下に黒い砂がありました。そして私が立つ。重さがそこにあることで黒い土が流出し筋が出来る。それを何度も繰り返してこんな文様が出来ました。私は「アートって何⁉︎」という疑問を常に持って生きてきました。その言葉を知ってから。でもこの文様を気付いたら無我夢中で撮っていて、「これはアート」だと思ったのです。この時はその直感のみでした。しかし、先生から周波数の話を聞いたことでそれが補完されたのです。アートとは、その人が解き放たれる周波数を持った物体。つまりアートと呼ばれる作品を前にした時に、気持ちがいいかどうか。ラジオのチューニングが合うか合わないかのはなしなんだと。


[[[ 他者の視点とその他の視点 ]]]

ここからは、毎度おなじみ私の妄想ワールドです。

全く脈略もなく始めますが、30余年の人生の中で私が最も嫌いな言葉を発表します。「屁理屈を言うな!」「お前が

言うな!」の二つです。前者は、言語道断「お前の意見なんぞ屁にも満たない」転じて「お前は屁以下だ」という最低なセリフです。後者は、世の中にある多様な意見の一つを認めようとしないなんとも狭い裁量を示した残念なセリフです。この二つのセリフから私に生まれたモットーが「人と話す時にはポジショントークを意識する」です。ポジショントークという言葉は巷でも使われておりまして、主に自らの立場を利用しそちらに有利に物事を進めようとする話し方のことをいいますが、私の場合は少し違ったニュアンスで使っています。

ポジショントークwiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF

ポジショントークとは、話者の生い立ちから育った環境、育ち方、出会った人々、苦い経験甘い体験悲しい出来事など、強いては直前の気分まで全て鑑みて話者の意見がある。という考え方です。ただそれだけです。一人一人はそれぞれの意見を持っており、考えており、それは他の誰にも発することができません。上の二つの口癖がある人の言い分も分かるんですよ。しかしながら、私が申し上げたいのは、その意見がどうして生まれて、言葉となって出てきたのかを汲み取って咀嚼してから、「参考にさせてもらいます」と仰っていただきたい。参考にした結果までは言及致しませぬ。

という訳で、人ひとりひとりにはそれぞれ固有の視点があるということなのですが、その視点とは一体「どこ」なのだろう。と私はふと思ったのです。ましてや「目」が存在しない俯瞰の視点とは?


[[[ 多次元ワールドへようこそ ]]]

話者の口、目、耳、脳はどこにあるのか…

それを考えていた訳ですね。確かに、目の前にいる…。目の前にいる…。目の前にいる…?目の前にいる…のか?

目の前にいると認識しているのは、(いまのところ)3次元でしか認識しようとしない私の脳のせいで、本当はもっとそのpoint of viewを正確に表す座標があるのではないか?その人のポジションはきっとそこにあるし、常に動いている...

物理の入り口の話に酔いしれた私は考えました。この世界はなんなんだ。こんなにも美しい景色も覗いて覗いて覗き詰めれば、ノイズ画なのか?と。夜空の星を見上げて「あの星は今はもう存在しないんだよ」なんてロマンチックな話をしている君の横顔。その美貌すらもノイズであり、私の脳で処理している間に私の中の君はもういないのか、と。


[[[ おわりに ]]]

読み応えのない長文でしたが、お付き合いありがとうございました。mixi時代から長文を投稿すると褒めてくれる人が現れるので、ちょっとそれを期待してたりもします。褒められると伸びるタイプです、私。

とことんオステオパシーのことを推してますけど、私にとってオステオパシーはただの施術だけでなく、新しい考え方、視点のインプットにもなり、さらにそれが新しい人との繋がる際の共感ポイント、そうまさに呼応し合う周波数があるのだと実感させてくれているので、この投稿には再三登場させております。回し者ではありませんのでご了承ください。

さて、思考が回り、言葉になり、人が集まり出しております。

この先も、半径500mの人々が幸せでありますように。

shimisanpo journal

流離の牧歌的 コミュニティオブザーバー しみお のサイト

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