物理的距離、時空的距離と心親的距離は相関しないよ

  先日、面白いエピソードが連続して勃発したので、ここに記しておくことにします。以後、僕と付き合う人はよく覚えておいてください。

  地元での活動から羽ばたいて首都圏へと活動拠点を移していた、なかにしりく君。数年の活動を経てまた札幌に帰ってきていたのは知っていたのですが、まさかこんな所で再会するとは。というシチュエーションでそれが起きたのでした。

  名寄という道北の要地にて開催されていた、雪質日本一フェスティバルに僕は何も知らずに視察に行ったのだけど、そこのステージにたまたまりく君が出演予定で、リハ前の下見でステージ上がっているところをたまたま見つけたので「ヨォ!」と近寄っていったのでした。


  それから数日後、父が法事に参加するというので街中の葬儀屋さんのビルに送り届けた後、彼を再び車に乗せるまでの時間を過ごすために、僕は作業環境を求めて Lighthouse coffeeさんにお邪魔しました。するとそこには、かつて在籍した会社で小樽のカフェバーをやっていた時にお世話になった大先輩がたまたまいらしてたのですが、「お疲れさまです」といつもの僕のトーンとテンションで挨拶しつつ、隣の席に着いたのでした。

  その両者のリアクションが共通していたのですが、皆さんも「久しぶり」なシチュエーションで感じることは一緒でしょうか?


  久しぶりにしては素っ気なさ過ぎ!! しかも偶然なのに!! 感情ないの!?


今の時代、一期一会以外の結果って当然あるよね?

  失敬ながら、僕は「これはとても面白い。これが長年僕が解き明かしたかった謎だ。」そう思ったのです。僕以外の人のことは分かりませんが、これまでの色々な人間関係から察するに、おそらく僕は人よりも連絡不精です。何か仕事するとか約束するとか、告知するとかのこと以外の連絡ってほぼやりません。皆一律です。でも、私の想像が正しいのであれば、一度知り合った人同士はちょいちょい連絡のやり取りをするのでしょう。たまには一緒に遊びに行く人もいたりとか。そこの密度で人間関係を構築したり評価したりしているのではないでしょうか?

  僕の場合はそうではなくて、その人への尊敬で結んでいるので、物理的距離が開こうが、時空的に開こうが、実際に近くで会って尊敬できる相手だと記憶してから僕とその人の関係は変わらないのです。それに、今の時代、一期一会なんて別れ方はほぼしないし、例えば圧倒的な何かの力が働いて両者を意図的に引き合わせない状況があり、それをようやく跳ね除けて会うことができたくらいの条件じゃないと、再会したことに感動はしないかも。だって、お互い自由に動けるのだから。再会するということは近いバイブレーション持ってるということなんだから、むしろホッと安心するのが自然なのではないでしょうか。


お互い変わったかもしれないし、お互い変わっていないのかもしれない。

でもきっと今、これって引き寄せ会えたってことだよね。

  

  普段、日頃の連絡しなかったり、急に遠くへ旅立ったり、突然告知の連絡をよこしたりしてもそれは貴方の存在を蔑ろにしているという行動ではないので、そのようにキャッチしないでもらえたら嬉しいです。確かに、常に頭最前線で思い続けているかと言ったらそうではないのかもしれないのだけど。その時自分に認めたリスペクトは変わりません。いつも支えていただきありがとう。


  


 ぶっといロールモデル的な人生の歩み方をしている友人から見ると、僕の人生は紆余曲折過ぎて理解が不能らしいです。それを面白がってくれる人もいれば、思考停止してシャットアウトしてしまう人もいます。自分自身でも、この中途半端な人生が何か価値のあるものになったり、かつて仲良くしていた人達にも「そうきたか!そういうことだったのか!」と再認識してもらえるようなものにならないかな、と他人事みたいに漠然とした未来解を期待しているくらいなので、高校行って大学行って就職して結婚して…⏩⏩⏩という決まった展開しか頭にない人には、説明のしようがありません。

 ところで、今私はNSH合同会社というところに属させてもらって、なないろ訪問看護ステーションの裏方として仕事をさせてもらっているのですが、とても不思議な感覚に陥ることが多々あって困惑してしまっています。と言うのも、これまでの散らかしっぱなし人生の中で点として存在していた瞬間的な出来事が、今になってまるで伏線を回収するかの如く、次々に繋がっていくのです。

 確かに、ご都合主義的結果論と言ってしまえば、それまでなのかもしれませんが、きっとこれからもフラッシュしていくに違いありません。ただ一つ気になるのは、一度疎遠になってしまった人たちの人生にもう一度関わりに行っていいものかと...悩んでおります。そうなってしまうのには僕の方に理由がある訳で(僕から嫌って遠ざかったのはまだ1人しかいないので)、それをお一人お一人精算しなければなりませんよね。しかしながら、人生というものは有限なわけで、その中で関係を保てる人の数もきっと限りがあるんだと思います。僕にもお相手にも。

 さて、僕たちの世代にもそろそろエンディングが近づいてきました。30代後半〜40代前半のみなさんはこれから先、何を大事にしていこうと思っていますか?

 自己紹介のページにも追記しましたが、今の訪問看護ステーションの会社にご縁をもらって、そこに即決させてもらったのは、このACPの話を教えて貰ったからでした。家族という単位からコミュニティの在り方を良くも悪くも変えてしまった近現代社会。
 愛する人が先立ってしまう感動ドラマは好んで鑑賞するのに、現実では「もし、自分がそうなったら」ということについて語られない。語り合わない。現実で見据えてるのは「死後に残された人がどうなるか」つまり金の話のみ。いったとしても、埋葬の方法とか。

もっと大事にしなきゃいけないことがあるでしょ❗️

 正直なところ、上の記事は、所長に「今現在闘ってる5歳の子とその親御さんが居たとして、その人達への配慮が足りないんじゃない?」とと言われています。しかし、今この取り組みを始めなければ、いつ始めるの⁉️(始める前提ですけど)これまで放ったらかしてきたツケが今も多くの人々の悲しみの谷を余計に深くしてしまっているというのに。一つ物申させてもらえれば、「大人」と「子供」に分ける視点は好きではないです。私は。
 過去に厚生労働省のPR事業が失敗したという事案があり、既に抵抗感をお持ちの方もいるかもしれません。もしそうだとしても、私の想いを込めた記事を読んでもう一度考え直してみて欲しいです。そしてコメントなりメッセージなり。noteのサークルなりでお話しできたら嬉しいです。ここまで読んで頂き有難うございます。

ラスベガスへ

札幌、ススキノの片隅にあるAviciiのmvがひたすら流れる飲み屋で知り合った仲間とノリでオーストラリアへ旅立って以来、私は色々海外に飛んでみました。その旅ゝで共通しているのは、各地のEDMフェスやナイトクラブに行くことでした。

そのほとんどが、ある友人の影響だったりするのですが、今回もその人からの連絡で期日約1ヶ月前に渡航する決意(この時点では必要な購入物を手に入れていなかった)が固まりました。ちょうど自分の誕生日と重なるので、自分へのプレゼントだ!っていう無理やり感もあったんですけどね。

そして、この日がやってきます。

Aviciiの遺体が見つかったというニュースが流れた日です。この日は親戚の目出度い日だったので、心の持ちようが大変難しかったことを覚えています。

その後、準備を進めワクワクが増していく中で、知るAviciiの心中。

何を選択するにしても、これまで物欲で動いたことは一度もなかった。もちろん、成功したことで得たチャンスや安心感には感謝しているよ。世界中を飛び回って演奏できるなんて本当に恵まれていると分かっている。でも、アーティストとしての人生が大きくなりすぎて、人間としての人生がほんの少しになってしまった
どう生きるかを考える必要にかられた。成功するために成功を求めているって感じだったから、もう幸せを感じられなくなっていたのさ

Aviciiがレジデントとして多くの時間活動していた、イビサ島とラスベガス。そのうちの一つに行くことに何らかの意味がある気がしました。この数年の私のハイライトストーリーテーラーは彼だったと思っていたように今は思います。


Aviciiの訃報が入る前から、今回もまた、例外ではなく、edc LAS VEGAS 2018 ă¨ă„ă†ä¸–ç•Œä¸‰ĺ¤§EDMフェス最後の砦への参加がメインの目的でした。が、あの聞きたくなかった知らせによって、ベガスという彼の生きるエナジーを奪った要因の一つであろう場所の空気感に触れるというのも加えられました。


私は何となく分かる気がするんです。

AviciiことTimの楽曲制作に込めるメッセージ性と現場(クラブやフェス)に集まるオーディエンスの熱の因果関係についてよく分からなくなる気持ちが。EDMの楽曲の中には、意外と人生の教訓や本質なんかを歌っているものが多いんです。だから、本来ならば彼らのメッセージがオーディエンス達に伝わっていれば「人生謳歌の為にすべきこと」みたいのを他に見つけて巣立っていくものだと思うんです。

が、当然、彼らのビジネスに対するお客さんでもありますし、客は客で酒に引っ掛けられながらパーティー三昧を繰り返すネタとして楽曲を重宝したりするのです。


金がバランスを取る世界の最高峰に潜入

煌びやかなエンターテインメントを売るEDM界。そんなキラキラする夢を見せ、金の匂いがするような曲が流れるクラブシーンに集まる人々にとっては、Aviciiの感受性なんて関係ないのでしょうか。ただただ、ハイになれるサウンドを欲しているだけなのでしょうか。

私は、ネバダの砂漠のど真ん中に集まる人々の中、一人きりになると、時おりそんなことを考えていました。


一方で、しっかりちゃっかり、トップDJ達のパフォーマンスを楽しんできました。特に、KSHMR ăŽă‚Şăƒ•ă‚Łă‚ˇăƒŁăƒŤă‚˘ăƒ•ă‚żăƒźăƒ ăƒźăƒ“ăƒźăŤă‚ŹăƒƒăƒăƒŞćŽ‹ă—ăŚă‚‚ă‚‰ă„ăžă—ăŸďźĺ˝źă‚‰ăŤăŻă€ć—ĽćœŹă‚’ĺŤă‚€ćąć´‹ăŽć–‡ĺŒ–ăŤé–˘ĺżƒăŒă‚ăŁăŸă‚Šă€ĺ˝ąéŸżă‚’ĺ—ă‘ăŚă„ă‚‹äşşăŒĺ¤šăă€KSHMRもまたその一人です。たまたま、現地の会場であった友人が日本国旗を使ってKSHMRのステッカーを作って持参していたので、ドラゴンボールZに登場するRRの人造人間を模して、カメラマンに猛烈アピールしました。

私もしがない撮影者の端くれとして、"映える"ことは分かっていたので、これを撮ったカメラマンは大層喜んだ様子で撮ってくれました。

突然ですが、Madonna Material Girl official music videoをご覧下さい。

フェスやパーティーに行くと「仲間」や「ファミリー」「パートナー」が大事というか、ほぼ人々はその単位で動いているのだということが見えてきます。そして、今回アメリカで感じたのは妙に美男美女のカップルというかパートナーが多いということ。material girlの欲する物質には金だけでなくイケメンも含んでいるのでは?と思ってしまいました。逆もまた然り。

それが良い悪いの話ではなく、そういう周波数の集まりなんだなぁ、と実感したのです。

でも、それって本当に幸せなのかなぁ、とは思います。

ベガスの街に戻ると、パーティ用に着飾ってクラブへ向かう人々がいました。本場のパーティ文化を垣間見た気がしました。それはそれで文化なので否定はしませんが、どうも「それってマジックにかかってるんでないか?」と疑ってしまいます。いや、それは疑うまでもない事実で、人々は魔法にかけられる為に自らにも魔法をかけて集まっているのかもしれません。


They felt like what was going to be given to them, and it just didn't last forever. Like, nothing last forever. 


これは世界のパーティーシーンに密着して撮られたドキュメンタリー映像の最後に語られる言葉です。ご興味のある方は、少し古いものですが、下の映像をご覧下さい。




いつか解けてしまうsuper magic。

あなたはかかってみたい?




最後に


自分が生きて居さうもない百年後の事などは、考へて見たことがありません。
ただ然し人間が之から先、だんだん幸福になつて行くか、何うか大に疑問だらうと思ひます。
(菊池寛)
「百年後の日本」『日本及日本人』(1920年4月5日発行)


無間地獄(阿鼻地獄)が由来だという、Aviciiという名前。

ビッグマネーに興味が無く、ただただ良い音楽を作りたかった彼にとってEDMの世界は無限地獄だったのかもしれません。

R.I.P. Avicii my super star. thank you.








↓↓↓絶賛、魔法にかけられているshimisanpo カシミアオフィシャルアフタームービー↓↓↓


ご賛同ありがとうございました!

実家の家財を一斉処分することになり、フリーマーケットを開催し、大きなものから小さなものまで、沢山の友人知人やたまたま感度の合った方々にお渡しできました。

同じ品に対して、人それぞれ違う価値観でのそれぞれのリアクションがあり、その数々を目撃出来たことは確実に私の財産になりました。本当にありがとうございます!

特に、写真の友人ファミリーには、ピアノや五月人形やストーブなどなど大型高価なものも引き取ってもらいました。いい家庭のお役に立てたなら本望です!


我が家の大本営発表により急転直下の業者介入

が、幸せな時間は束の間で...

私は、人に渡すことばかり考えていて、フリーマーケット期間中に肝心な自分が今後も所有しておきたい(or おかねばならない)品々を分別しきれていませんでした。ところが、一刻も早く整理したいと考えていた両親がフリマ終了直後に、遺品整理のような業者を入れてしまったのです。もとい、元より業者が入るのは決まっており、その前にフリマを無理やり開催したのでありました。

その結果...

悪口を言うつもりじゃありませんが、「プロ」の仕事はあまりにも心無い作業で、心を土足で踏み荒らされるだけでなく、「ものの看取り」が一切出来ませんでした。日常生活にどうしても必要な訳でも、毎日手に取って愛でていた訳でもないけれども、「そこ」に在ることが分かっていたもの。「そこ」に置いていたのは、どうでもよかったからではなかったはず。なぜなら、今いくつものモノに対して、喪失感を覚えているから。


そもそも断捨離の目的とは心身のバランス調整なはずなのに...

私にとって、ミニマムな生活を求めて、日常生活で使っていない休眠アイテムに次なる活路を見出そうと言う意味での断捨離ですが、中途半端に強制執行されてしまった為、逆に妙なシコリが残ってしまいました。

これからの時代、いつ何時「整理しておけば良かった」と後悔する時がきてもおかしくありません。突然急かされてやると、あまり良くなさそうです。

余裕と計画を持って身軽になっておきましょう!


最後に

故・藤村俊二さんの言葉です

この世でいちばん愉快なことは、何かを持っていることではなく、何かを経験できる瞬間です







マインドシフトを促そうとしてきたら、自分がマインドシフトした

 これまで、色々な形で旅行をしてきて私が考えたり感じたりするのは旅行ビジネスのことであったり、「インバウンド」と聞かされ意味も分からず言わされしている地元民のはたらきや営み方なのです。最近、その積み重ねによる思考の紡ぎ方が変わってきました。

 端的に言うと、「なんでもっと広い世界を見に行かないんだよ!」という閉鎖的な環境に対する開国のススメ的な思いが強かったのが、少し弱まった感じです。私は北海道に住んでいるので、時代の流れが遅れてやってくるというか、「イノベーション=自身の危機」だと捉える人が多いなと感じることがしばしばあります。もう、そういう人達を変えようとか、変われば良いのにとモヤモヤするのを止めれば良いのだと、気が付きました。


見知らぬ土地に来る人とその地を知り尽くした人が出会うこと

 インバウンド、アウトバウンド、旅、旅行、観光などなど、呼称は様々ありますが、shimisanpo的辞書には、どの項目にも「見知らぬ土地に来る人とその地を知り尽くした人が出会うこと」と記されることでしょう。

 人の往き交いには、これという決まりはありませんが、多くの場合発生するのが、「見知らぬ土地に来る人とその地を知り尽くした人が出会うこと」です。そしてそれが発生することを前提とし、それを目的の一つにしているのが、「現代の旅行客」です。それが醍醐味だという事を知らない人は覚えておかないとなりません。


SNSによって開かれる世界

 今の社会にとって切っても切れない程の存在になっているSNS。その最大の特徴の一つは、「共有する」という概念です。文字だけでなく、写真、音声、動画などなど、知人の一次情報のみならず、2次以降の情報も次々と流れ込んできます。その情報洪水の中から有益な情報を取捨選択するのもスキルの一つですが、近頃は、より精密にコントロールされた情報が流れてくるようになりました。エンドユーザの欲しがっている(であろう)情報が交通整理されてデバイスに流れてきています。リアルな人間関係、興味から起きる行動がバーチャルな世界に反映されるのですが、これにより、私は毎日のように世界旅行をしている気分になっています。そして、直ぐにでも飛び立ちたいと思っています。

 このことから察するに、これからの世の中、何かに関心を示せば、高速でその道にリードされ、深めていけるのです。世界のことを知りたいと思えば、2次以降の情報であれば幾らでも得ることが出来ます。


世界の観光産業の在り方と日本というガラパゴス的文化を持つ国のやり方

 さて、いよいよ本題ですが、自身が実際にひとまず簡単に世界に旅行に出てみて得たことと、似たような関心を持つ友人がシェアしてくれた情報とを照らし合わせて見えてきた、観光業と地元民生活の有り様を外と内で簡単に比較してみたいと思います。

 日本は、クローズドマインドで自分のことしか考えないビジネス。「自分が儲ける側」の視点しかない印象。東南アジア〜インドのリゾート地では、入って来る前の下拵えも用意してあり寄って来たらぶら下がりマーキングすると知り合いにパスパスパス。外から来る客に備え、効率よく対処する印象。

 きっと、結局私も日本的な思考で日本の事を考えていたのでしょう。危機意識を各々の事業者が持って、他言語を習得し各々でホスピタリティのスキルを上げていくべきだと考えておりました。ところが、英語だけでも使えるようになろうとする人と、しない人の差は開くばかり。世界の数カ国を回ってみて、実感しました。日本語だけで充分暮らせてきた危機感の無い人達には、そもそも無理な動機付けなのだ、と。

 一方、武力により侵攻される歴史を繰り返してきた地域の人たちは、半ば強制的に多言語を扱う習慣があり、外からやって来る人々との接触に対して「必死に考える」事をしています。笑顔で相手の地元の言語をワンフレーズ使ってコミュニケーションを取ってきます。商売人だから当たり前と言ってしまえばそれまでですが、逆に言えば、商売努力不足だとそのままこちらに跳ね返って来るだけです。それに、諸外国にだって言語が使えなかったり、積極的にコミュニケーションを取ることが出来なかったり、むしろ煙たい顔をする人だっています。がしかし、そこに肝があります。そういう人達もまとめて「ファミリー」としてベルトコンベアー式観光ビジネスコンビナートに参画させているのです。外国人と渉外する能力のある人々がリーダーシップもイニシアティブも取って。


これからもこの列島に住み続ける場合に考えておきたいこと

 今や、60億人総大航海時代と言っても過言では無いのは、上で述べた内容から分かってもらえると思います。「生まれてこの方旅行なんてしたことない」という人も、実は航海してるのです。(↓↓↓ ă“ă‚ŒăŤă¤ă„ăŚăŻä¸‹ăŽnoteをご一読ください ↓↓↓)

今、私たちは生きているだけでタイムトラベルしている|shimisanpo|note

ドラえもんがのび太の勉強机の引き出しからやって来たときから、いつか、ああいう乗り物が出来て、恐竜が生きていた時代に行けたり、孫の孫の顔を見に行けたりするんだと私達は夢見て来た。 もしかしたら、本当にそんな日がくるのかもしれない。 ただし、その前にこの時代に生きている人々は気付かなければならない。 仮に、千年以上前から同じ住所に先祖代々住んでいたとしても。同じ何某という国で暮らしているとしても。 同じ場所に立っていたとしても、一分一秒世界は変わっている。 例えば、定点観察というものをご存知だろうか。 定期的に同じポジションから同じ構図で写真や映像を撮って記録して

note(ノート)

 ポイントは、「今立っている場所の素晴らしさにハッと出来るか出来ないか」です。その感動を伝えたいと思い、綴ることが出来れば誰もがマルコポーロ。とんでもない発見をしてしまったらコロンブスなのです。また、自分自身が浪漫紀行を書けなくとも、誰が素敵な航海日誌を世界へ公開しているのかを察知するということもとても重要です。

 そして、その天国からのベストセラーならぬベストエンゲージで伝わった秘境を求めて地球の裏側から冒険者達が並並ならぬ期待を胸にやってきます。

 さて、それを市場も世界から見放され、経済も騙し騙し破綻しているまま進み続け、成長したインフラも自然に風化され、文化を継承する気も無く、かと言ってイノベーションもレボリューションも無い。そんな日本でどのように迎えたら良いでしょう。

 答えは簡単「おもてなし」です。「いらっしゃいませ」と玄関で待っているのがおもてなしだと勘違いしてはいけないです。「おもてなし」は徹底的な情報コントロール、エクスペリエンスコントロールを意味しています。来訪者が来訪者と成る前の餌撒きからおもてなしは始まっています。

 結論としてましては、来訪者が家を出る前から、帰った後までの「ご案内」をする役を誰がイニシアチブをもって仕切るのか。宿屋の主人なのか、WEBサイトの管理者なのか、観光タクシーの運転手なのか、はたまた役所のトップなのか。

 友人の体験談によれば、インドでは、ホテルのオーナーが徹底的に「自分の客」に対して責任をもって手配のサポートをしてくれるそうです。友人は「マガイモノ」に騙されてしまいオーナーはそのハイエナ業者に対して大変激怒した様子を見せたそうです。

 私の体験によると、ブッキング代理をしているWEB業者を通してフィリピンのツアーを予約したら、現地では「聞いてない」「なんだそんな予定だったのか。もっといい方法あったのに」と言われ土壇場で錯綜し相当ザワつきました。

 つまり、私がイニシアチブをもって仕切ると言っている内容とは、ゲストの滞在を多元的に管理し、行動意欲を操作し、ファミリー事業者間で満足感をもってパス交換しながら、「最高の経験をした時間だった」という感想をお土産にして帰ってもらうということです。

 もしかしたら、観光バスツアーがこれに近いのかもしれませんね。ただ、店舗を転々と回るものが多い印象です。都度各場所でショッピングするスタイルだけでは無くて、ツアー料に諸々含んでいて、地元の人間しか知らない秘境でゆったり時間を過ごしながら、地産地消の手料理を食べられるなんていう「プライスレスなエクスペリエンス」を商品にするといいかもしれません。


まとめるとAirbnbは最高。

 駄長文にお付き合い下さりありがとうございました。私の主張は貴方の腑に落ちてくれたでしょうか。

 今現在北海道では4件しか登録がありませんが、TABICAという素人でも出来るセミプロガイドツアーのプラットフォームサービスサイト(ツアー参加希望者とのマッチングサイト)なんていうのも出てきております。

 まずは、地元に精通すること。

 Airbnbと聞くと、民泊というワードが浮かぶでしょうか。民泊の話題が「ゲストを泊めると問題が起きる」という内容ばかりでネガティブな印象を植え付けられた人も少なくないかと思います。Airbnbによってゲストとしてもホストとしても最高な経験をした身としては、これは本当に残念なことです。

 なぜ、私のところに、あんなにも素晴らしいゲストのみんなが集まってくれたのか。

 それは、私の顔写真と言葉で「地元に精通していそうな人が迎えてくれる」ということがピンときたからではないでしょうか。家を出る前に、最高なエクスペリエンスを手繰りよせることが出来るからです。これは、私がゲストとしてもAirbnbを利用しているから分かるのです。

 部屋という空間にしかフォーカスしていない人も確かにいます。「この部屋に対して幾ら」という天秤での価値観でしか見ていない人と混ぜて民泊や観光を考えてしまうと、全く豊かにならないので、今すぐやめましょうというのが、私の考えです。

 皆さんは、どんな旅話をお持ちですか?ぜひ旅談義しましょう!


函館西部地区の遊休不動産の利活用をプロデュースする「箱バル不動産」さんのイベントに参加してきた時の話です。詳しくは下のリンク先を御覧下さい。


私が参加したのは、こちらのイベント。フラッと函館に現れて箱バルのメンバーと出会い、ドタバタ突貫で始めたカフェ運営についてのお話でした。

のぶさんは、まずお話の前に「貴方の貴重なお時間と大事な1000円を使ってお越し頂きありがとうございました」と仰いました。ある意味、もうこれだけでこの日のお話は充分。のぶさんは、感謝を忘れず大事にしたことで今があるのだと物語っていました。

カフェでは、目の前の様々なお客さんに対して、それぞれどのようにアプローチしたら満足してもらえて、「また来たい」と思ってもらえるか、を常に考えているそうです。気が抜けないお仕事ですね。かと言って、気を張っていてもいけない。

このイベントにも、お店の常連さんが何人もいらしてたみたいです。



さて、私が今回考えたいのは、こんなのぶさんを柔軟に受け入れ、成功の後押しをした「箱バル不動産」というチームの存在についてです。


ぶっちゃけ、「遊休不動産をどうにかしたい」と思う人はいくらでもいる訳です。よく短絡的な発想をする人は、「思っているなら貴方がやればいい」ということをすぐ口走ってしまいますよね。それやめませんか?そうではないんですよ。という話です。物事(プロジェクト)をしっかり進めるには、適材適所が必須であって、その適所に置かれた適材がベストな巡り合わせでチームを組めた時に、ちゃんと動き出すのです。繰り返しになりますが、困ってしまうのは、「志ない人」が、「志ある人」と「志ない人」で勝手にセグメントして私には志がないから、志ある人がやればいいと投げやりに全て押し付けることです。大事なのは、「志ある人」の中に適材適所があるということで、志があるというのは、ただの大大大前提なのです。


社会のあらゆる夢や課題に対して「やってやる」「なんとかしたい」と思っている人は溢れていると思います。

きっとそれは、大方のことが叶ってしまうことなんだと思います。


但し、適切な人員配置がなされれば。


その観点で、「箱バル不動産」はミラクルでした。

地元でコツコツと営業し人気を集めていたパン屋さんの淳さん。そこにタイミングよく集まった宅建士の蒲生さんと建築家の蒲生さん。そして特別な例かもしれませんが、街の窓口となる淳さんの所に飛び込んで来たのぶさん。もっと言えば、ネーミングの元にもなっている、「バル街」というサーキットはしご酒イベントを10年続けて土壌を作っている西部地区の皆さん。

無論、皆さん弛まぬ労力を注いだ結果にあるこれまでの実績ですが、そのプロジェクトを生んだり継続させるのに必要な座組みがとても上手くいったケースなんだと思います。各々の街や人、遊休不動産に対する思い、各々のスキルと立ち位置(生活軸)、出会うタイミング、周辺理解...次々に挙げていっても全て◎です。


何と言っても、ストーリーが面白い。

tomboloというパン屋さんをやってる淳さんは、幼い頃から独立起業心が強い人物だったらしく、10代前半の頃に自分が好きで集めたフィギュアなどをフリーマーケットにて出品していたそうです。「自分が買った値段よりも高く売れる」ことが面白いと思ったと仰ってました。

そして、そのフリーマーケットにお客さんとして来ていた同い年の少年が蒲生さん。違う学校に通う二人の接点は、その日の対面だけだったそうです。

時が経ち、それぞれの道を歩み、再び淳さんのお店にやって来た蒲生さんは、その日のことを忘れていませんでした。もちろん、淳さんも。

もしかしたら、20年前から「箱バル不動産」は産まれていたのかもしれませんね。


プロジェクトマネジメントは奥深く難しい。



「ここではないどこか」には、ここにはない周波があって、風が吹くように、雲が流れるように、潮が満ちては引くように、人は旅をするのかもしれない。


「暮らすように旅しよう」

そんな標語が出てきた昨今、テクノロジーの進歩と共に、旅行の手段目的の多様性が明らかになってきている。元来、旅とはなんだったのか。人が遠くへ行ってみようと一歩踏み出す動機はさまざま。冒険、興味関心、見聞興奮、伝聞拡散(←イマココ)といった感じであっている?

私は、ここ2、3年の間に出来る限り色々な場所に行こうとした。その世界はある友人に会ってから急速に開かれて、誘われるままに興味を向けていった。

私は自分で旅しながら、Airbnbのホストも始めて世界中のゲストを迎え、我が家にいならがにして世界中を旅していた。まさに「暮らすように旅しよう」を実践していた。そしていつしか思うようになった。


「地球が家」の時代

夜、寝室で寝て、朝起きて、リビングでコーヒーを淹れて飲む。

ありふれた光景。

それが、世界中の様々なロケーションで出来るようになるのではないだろうか。

世界中に朝コーヒーを飲む事が出来るスタンドがある。世界中に自分の帰りを待っていてくれるリビングがある。


しかしながら、そう簡単に「地球」は「我が家」にはならない。

「我が家」なのに、各部屋に何があるのか分かっていないのだから。


かつて先駆的な旅人は辿り着いたその地の日常に興味を持った。それはセンセーショナルな異文化との出会いがあったからかもしれない。命を賭し、そのエキサイティングさを人々に伝えようとした。その情熱こそが今日を作っており、長い月日をかけて変化を遂げようとしている。

先人達の思い描いた未来像はテクノロジーを発展させ、人々の感情の波を増幅させている。人類が初めて「旅」してからというもの、冒険→興味関心→見聞興奮→伝聞興奮→冒険...が繰り返し積み重ねられ、何万年経ったのか。「旅」は y=x^n (0<x, 1<n)で変遷している。クレジット決済、パソコン、インターネット、GPS、iPhone、Google、Wi-Fi、SNS、LCC、Airbnb、各種ホテル予約サイト、日本国旅券、プライオリティパス...これらの技術やサービスの誕生が現文明のラストスパートを合図している。

あくまで私の近い範囲で感じることではあるが、現代の旅人達は、ただ単純に非日常のストレスを味わう旅行ではなく、「非日常の世界の日常を知り、その日常に浸る事で日常化させる」そこに楽しみを覚えているのではないだろうか。それがラストスパートの合図によって可能になっているのである。

もちろん、商業的にまとめられたガイドブックやツアーを否定している訳ではなく、むしろその意識を強めていくことも重要だと考える。


ただ、尺度の革命が起きているのだ。時空の革命と言ってもいい。

「旅」の相対的認識も新しい要因かもしれない。

金曜の仕事終わりまで一緒だった知人が、飲み明かして翌日ブランチ頃に起きた時には、南の島でインスタ映えさせてる。

他者の脳内で一種の錯覚に似た「あれ?」という反応が起きる。もしかしたらこれがタイムスリップの一つの要素かもしれない。


何故、貴方は旅に出るのですか?

「ウォ〜なんでやね〜〜ん!!」

久しぶりに叫ぶという行為をしました。いいもんですね。


はい。遅ればせながら、初めて競馬場に行き馬券を買って楽しんでみました。

きっかけは、競馬が好きだという友人がちょうど二人いたので、彼らを会わせて対談させてみたのです。そしたら、相乗効果がグイグイありまして、「面白そうだ!現場に行ってみよう!」ということになりました。

正直なところ、競馬というのはギャンブルであるし、WINSにいる酒臭いヤニ臭いおっさん達のものという固定観念がありました。

しかし、その友人二人の知的意欲(血的?痴的?値的?)を駆り立てるアプローチにより、そのイメージ更新作業が始まったのです。


ところが!

競馬というある種の世界を知っていく上で押さえなくてはいけないポイントがめちゃくちゃ沢山あるのです。


その中でもどうも腑に落ちず、答えの理解に時間がかかったのが、

「世界のどこかの平原を疾走している速い馬を連れてきたら、最強馬主になれるんじゃないの?」

という疑問です。

世界は広いからもっと速い馬がいるんじゃないの?という可能性を一ミリも譲ることなく否定する友人二人。私には、どうしてそんなにキッパリ否定できるのだろう、という疑問が重ねて浮かび上がります。


彼らの答えは、「血統だから」


さらに「?」が畳み掛けられます。

「良家の坊ちゃんより、郊外のヤンキーの方が喧嘩強かったりするんじゃないのかな?」

何度も問答を繰り返し、ようやく分かってきたのは、


・別に、競馬界は世界最速最強の馬を見つけて表彰しようとしている訳ではない

・その一方で、速さを極める為の交配を繰り返してきているので、競馬界外に早馬がいるのは考え難い。

・サラブレッドの血筋を辿っていくと、3頭の馬の血に辿り着く。(逆に言うと、その3頭の子孫でなければ、競馬協会のレースには出られない)

・世界の何十万頭、何百万頭のサラブレッド全ての血統書と体の特徴をきめ細かに記録している部署(企業?会社?)がある。


つまり、ヨーロッパを起源とする競馬界のルールの中に、駒としての馬の定義も決まっており、このコミュニティはそのゲームを続ける為にサラブレッドという生き物を生産しているということ。


これは競馬通の人には常識中の常識らしいのですが、私はそんなことも分かっておりませんでした。

サラブレッドという生き物の存在は血の配合から命の誕生まで業界人が完全にコントロールしており、もし競馬という組織や人が居なければ、瞬時に絶滅してしまうであろうと言われるほど、サラブレッド達は人間無しでは生きられないらしいです。


いわゆる「始まってしまっているから止められない」状態であるが故に、サラブレッド達を愛してやまないファンたちは今日も競馬で遊ぶことにより、彼らの「生まれてきた意味」について深く考え、貢献しているのだそうです。


もっともっと!と色々聞いていたのですが、最終的に「wikipedia見たら載ってるから!」と言われてしまいました。そして早速ググりまして、最初に出てきたのが、この投稿のタイトルに使いました、「thoroughbredとは人為的に完全管理された血統である」ということでした。


貴族の戯れはかくも早く神の聖域に手を出していたのか、と驚かずにはいられませんでした。


まだまだこれからも話を聞いて勉強していきたいと思いましたので、noteにマガジンを作ろうと思います。もしご興味ありましたら是非ご覧になってみてください。そしてshimisanpoを応援支援してやって下さい。よろしくお願いします!





「あぁ、なんて美しいのだろう」


つまるところ、この世の全要素は感情という物質の振動で出来ている。

草木は、その種の拡散と繁栄、他種との交配の為に、甘い蜜と美しい花を使う。

人は、心揺さぶる創造創作をする。


人間として、生物として、役割が全うされればいい。

地球という物質自体が変化しながら存在している中で、役割があるならば。


興味関心を持って人が動くというのは、そういうことなんだろうなぁ、

というのが、もっぱら私の考え事です。


宇宙の中でこの星が必要であれば、この星の上で人間の役割があるならば、それに見合った人間の交配が行われる。それが進化なのか、退化なのか、良い事なのか、そうではないのか、そんなことはどうでもよく、なるようになる。


Let it be.


きっと意味がある。


私はそう思います。

仮に裏で仕組まれてたとしてもランニングが流行って、皇居の周りをグルグルぞろぞろと人が走り回るのにも、これも流行りなのか政治的にそんな手法しか使えなかったからなのか、セクハラ問題が取り沙汰になるのにも、何かしらの生物としての行動の意味があるのだろうと思います。


先日、下の投稿をしました。

情報革命真っ只中というか、もう革命自体は終わろうとしている時に、人々は革命によって何が変わるのか、何が変わったのかを認識しなければいけないのだと私は思います。そうなんです。革命なのだから、今までの常識に劇的な変化が起きたということなんです。


それは単に、誰もがスマホを持つようになりキーボードを使えない若者が多いとかいうレベルではなくて。もっと覚悟を持って議論しなければいけないことです。


私が考えるのは、

「人にはあらゆる違いがあり、人類を一緒くたには出来ない」

ということを認めなくてはいけないのではないか、という題についてです。


つまり、差別や男尊女卑について、これまではそういう思考や発想をする人とそれを無いことにしようとする人と、見て見ぬ振りをする人がいた訳ですが、その争いは不毛なもので永遠に続くのだということを受け入れる必要があるのではないでしょうか。

そして、情報革命によって得られるビッグデータにより個々人の趣向性から、そのマインドなど、パーソナリティが明確になり、いわゆる「棲み分け」がなされるのではないかと思います。


高次元による、人類大移動です。


住み良い小さなコミュニティに分割されて生きていく。

。

。

。

キーとなるのは、「本能と理性」についての着眼だと思います。


「仕事以前にオスとメスであるということと、権力や立場の差がある仕事中であるということ」

これが上手く整理できずにあーだこーだ問題になっているのが、セクハラ問題なのではないかと思います。

女性は女性の人生として、美を追求するのはもっともなことで、それを抑制する必要はないと思いますが、男性は男性として、女性に対して気分が高揚するのは正常なことです。


「本能を理性で抑えつけながら生きるのには個々人にそれぞれ限度がある」


全人類に問われているこの前提を法や世論によって治める時、

「限度を越えてしまってからそれに対してペナルティを課すのではなくて、限度を迎える前に何かしらのコントロールが出来ないのだろうか」


ある意味、この課題を無意識にそれこそ何かしらの空気のパワーによって生まれたのがいわゆる草食男子という生き物ではないでしょうか。

草食男子とセクハラオヤジ。

スマートに女性を喜ばせる事が出来ない男たちが棲み分けた時、その先はどんな世界なのでしょうか…考えたくありません。





1.はじめに

「私、灯油ストーブが嫌いなんです」

いきなり、こんな話題で「あ!私もです!」と感じて下さった方は、どうかご連絡を。死ぬ前に一度お話ししてみたいです。

という訳で、私は灯油ストーブが嫌いで、札幌の極寒の冬でも家にある灯油ストーブを付けずに、霧吹きで水滴撒いたらダイヤモンドダストになるんじゃないかくらいの寒気に満ちた部屋で布団に包まっていたんです。そのせいで体に限界がきまして貴重な体験をすることになりました。

私のことをご存知の方はその節を察して頂いた事があるかと思いますが、私には自律神経を失調している疑いがありまして、よく睡眠障害や痙攣が発生します。更に幼い頃から、内臓が弱く、腹を下すのはしばしばあることでした。

ざっくり、こんな弱い人と寒い環境の条件を整えますと、どうなるか…


答えは凍死‼️

今流行ってますね、投資。

そっちじゃないっすよ⁉️

死んじゃう方Death!見返りなんてないTHE ENDです👻

低体温症って言うらしいですが。

突然氷が張った池に落ちたとかの場合は、急激に色々な事が変わって大変らしいですが、私の場合は、寒い室温と徐々に下がる体温、自律神経の不調、元来の内臓の弱さ、という合わせ技なので、ゆっくりジワジワ順番に体に反応が出てきたのだと思います。更に、ここ何年かの間に痛風発作、膝関節水腫、腎機能低下とやってきて慢性的になってきているので、いくつもステップがスキップされているだろうと想像されます。あと、ケトーシスダイエットもしていたので、長い間満腹感を感じていなかったというのも関係しているかもしれません。

これは、2017.12-2018.01の約二ヶ月、最初は足を床に着けることも出来ず、ずっと同じ天井ばかりみて過ごしていたしみさんぽが徐々に回復しながら記した回顧録です。


目次

  1. はじめに
  2. 自律神経失調症の疑い
  3. 幼少期の思い出
  4. どうして病院に行かないのか
  5. どうして病院へ行けと言うのか
  6. どうして灯油ストーブが嫌いなのか
  7. 過去の過ち
  8. どのように救ってもらったか
  9. ついに手に取ることになった「気」の本
  10. 「スターウォーズ」「魔女の宅急便」「ジョジョの奇妙な冒険」「ドラゴンボール」「北斗の拳」などなど。
  11.  37兆2000億個の生きる意思
  12. 他に誰がこんな旅をしているのだろうか
  13. 秒速5センンチメートルの世界
  14. おわりに


2.自律神経失調症の疑い

自律神経失調症。私の場合は副交感神経が強いもしくは、交感神経が弱い。というバランスになっているかと思われます。症状は突然現れるのですが、気絶に近い様な感じで寝入ってしまうタイプ、数秒間落ちるか落ちないかの痙攣が顔に出るタイプ、体は動かせる(ているつもりだけかも)が限りなく意識が朦朧とするタイプの3種があります。10才頃から自覚症状はありました。近所の図書館へ歩いて向かう途中、急に意識が遠のき、完全に逝ってしまうのが怖くて、繋ぎ止めるのに必死でフラフラ歩き続けたことがありました。あの体験は今でも鮮明に覚えています。周りは光り輝き天国の様なのに、全く気持ち良くない生きた心地のしない気分でした。

今回、自宅療養中に両親と食事を摂っていて、顔面の痙攣が少しだけありました。私からしたらいつものことなのですが、それを目撃した両親がたいそう案じてくれました。心配してくれるのは有難いのですが、驚いたのは「いつからそんな状態なの?」という質問を受けたことです。確かに、私はこの状態について細かな報告をしておりませんでした(それ以前に、両親との会話は限りなく最小限に近い)から、20年近くそばで暮らしていて気付かない訳ないだろう、と。少なくとも、よく寝堕ちてしまうのは知っているのです。


3.幼少期の思い出

両親(とりわけ母親)は長男である私に期待をかけて色々な課外教育に通わせたり、学習塾や家庭教師にも習わせたりしておりました。その全額は果たして幾らになるのだろうか、と考えれば恐ろしいです。もっといい使い道があったに違いない、とどうしても思ってしまいます。(ところが、親の心子知らず、なんでしょうね…)中でも積極的だったのが、野外体験をする団体のプログラムに参加することでした。小学校低学年から中高生までの幅広い子供が土日や学期間の休日に集まってキャンプをしたり海外へ行ったりもしました。

別に特記することもないのでしょうが、子供にも子供の社会がありまして、その中でも夜間活動にて中心的存在感を出す、或いはその周囲に居るということは、コミュニティ内のリレーションシップ、場合によってはヒエラルキーに多大な影響をもたらします。そのような人間関係問題を抜きにしても、そこに居るか居ないかの違いで、リアルタイムの喜怒哀楽やそれらの思い出という掛け替えのない価値あるものをどれだけ濃密に得られるかという大問題に関わってきます。

私の周りの仲間たちは、どの旅でもイベントでも、そういう絆を深め合っていました。それは今でもそうです。小学生低学年の頃行った合宿で中学生の先輩がここぞとばかりに始めた花札にどれほど興奮したことか。でも、私はすぐに寝落ちて翌朝には皆との温度差を感じるのです。好きな子も出来たりしてた学校の宿泊学習でも、寝る場所を班のメンバーで割り当てた途端にスイッチが切れました。卒業アルバムに自分の知らない「時間」の写真が並んでいた時、どれほどのショックを覚えたことか。

皆さん、それぞれ青春の思い出のシーンがあると思います。私は、友人たちのそこに登場したかったけども出来ませんでした。


4.どうして病院に行かないのか

ここまで私のワガママな御託、主張を吠えたところで、大抵の人が並べて仰るのは「病院へ行きなさい」という言葉です。私はこの「オススメ」がとても嫌いです。何故なら病院に行ったところで期待に応えてはくれないし、薬漬けにしようとしてくるし、意味分からない請求をしてくるし、要は何も期待できないからです。

「病院へ行きなさい」という人のほとんどは、「体が不調だと思ったら病院へ行く」ということが当たり前だと思っており、自身がどうしてそれが当たり前だと自分が思っているかは考えておられないように感じます。そこまで問うたことは無いので真偽は分かりませんが。後は、社会のシステム上、診断書という「免罪符」が必要だと言うのが当たり前だとお考えの方もいるでしょう。


5.どうして「病院へ行け」と言うのか

このトピックをまとめるのに、非常に時間を要してしまいました。何故なら、私の父が歯科医であったことから始まり多くの知人が医療界に属しているからです。真摯に従事なさっている心を傷付けるかもしれない、嫌われてしまうかもしれないと思うと二の足を踏んでしまいます。まぁ、それもここまで。モヤモヤしてることを晴らすのみです。異論反論あるかと存じますが、お手柔らかにお願い致します。

さて、前の節にも出てきましたが、貴方は「病院へ行きなさい」と奨める方ですか?そうだとお答えの方はどうしてそうするのですか?病院は何をしているところだと認識されてますか?医療をサービスだと思いますか?

数多いる医療従事者の方々がそれぞれ個人のレベルで患者さんと接する中で、大事にしている志や感情はフィルタリングで外しまして、医療機関がやっていることは「データ収集」と「それに伴う処置」です。決して「病気や怪我を治してくれる」訳ではありません。病気や怪我を治すのは自分の身体自身です。ここに信条や感情の話を付け加えていくと、見えてくるのが「やりがい搾取」という新しめのワードです。とても腑に落ちる。最も尊いやりがいを操り、盾にしつつ、民の不安をネタに成り立っているのが、医療界。

死生観の違いについてはどうでしょう。

一刻も早く悪性データが見つかり、クランケが無駄に終末期を迎えずに済んで嬉しいのは誰でしょう。

既に私の中にある結論の一つとして、今の社会のほぼほぼのシステムと言うか成り立ちに解せない部分が多いので、「素直に属することが出来ない」というものがあります。それを踏まえて諦めた上で、とりあえず生きているというのが毎日のモチベーションです。

感謝をしていない訳ではないんです。これまでは大変お世話になりました。ただしかし、私が気付いたのは、本来研ぎ澄ますことの出来る人間の能力を無効力化させ、「病院に行く」一択になった思考回路。その回路を作り出すことに成功し無限搾取ループに入っている体制と制度とそこにズッポリな民の生活。

人生において幸せを感じる価値観は十人十色、それぞれ違うだろうし、それだから楽しめると言えるかもしれません。が、不幸を感じる時間には恐らく全ての現代人に共通している項目があるのではないでしょうか。それは、「痛み」「違和感」です。その痛みの起源や性質にもよりますが、身体の細胞から発せられた「痛み」というSOSも受け取れないような脳になってはいないでしょうか。ただの「悪者」一択で、それが現れた瞬間、劇薬で抹殺。という発想になってはいないでしょうか。


6.どうして灯油ストーブが嫌いなのか

さて、どうして灯油ストーブが嫌いなのか、の話です。

大抵の人は、灯油ストーブが便利で当たり前で疑問に思わずにいらっしゃるのかも知れません。むしろ、嫌いという私の話が不思議でならないという見方でしょう。

しかしながら、同調してくれる方もいらっしゃるはずです。薪ストーブ愛好の方ならば。

灯油ストーブの解せないところは、

・燃料の使用量と熱効率との仕組みが分かりにくい

・上のうえにオートマチック補充請求が解せない(屋外タンク定期配達利用の場合)

・いわゆる遠赤外線効果が無い

・いわゆる燃料業界に支配されてる気がする

結論から言うと、薪など草木を燃やして暖を取りたいという事なんですが、

なぜかと言いますと、

・燃えた分の暖かさがあるのだ。あったのだ。ということが分かりやすい。

・五感六感で温まる事が出来る(パチパチする音など)。

・それに対するコストが分かりやすい。

・整ったストーブだったら調理も出来る。

あとは、生活の日々の文脈の中にしっかり組み込んでいけるか、どうか。です。

寒くない環境にいるという状況に至るまでのストーリーも全く違います。そしてそのギャップこそが、薪から灯油に灯油から薪にと憧れの対象が変遷する理由の核であります。

明らかに、灯油ストーブの方が「楽チン」です。手間と時間の価値観をどこに持ち、生活の中にどの様に組み込んでいくのか。便利さを追求していくメインストリームがある一方、不便さの中に捨ててはいけないものがあったではないだろうか。そういう直感の迷いがここにあります。基準となる価値観がそもそも違うので、どちらが良い悪いではなくて、自分がどのような軸をもってライフスタイルを築くのか。そういう問題なんですよね。


7.過去の過ち

冒頭のはじめにという節で少し出てきましたが、24、5才で痛風発作が出てからというもの、毎年のように冬になるとどこかしら足に痛みが出て動けなくなるのですが、数年前の夏、野外のフェスイベントでのスナップ撮影を夢中でやった結果、飲まず食わずで動いてしまった為に、相当体内の物質バランスが悪くなり、大変な目に遇いました。両足首から先が変色し(色の表現がうまく出来ないのですが)、何かに握り潰されたかのように変形して床に付ける事も出来なくなってしまったのです。それが最初に訪れた腎臓クライシスでした。


8.どのように救ってもらったか

私の以前まとめたエントリーをまだご覧になられてない方は、こちらを読んでいただけるとより理解のタネが増えるかと存じます。

「この宇宙と私」
https://shimisanpo.themedia.jp/posts/3499282?categoryIds=962326

上の記事には、数年前から顕著になった体の不調とオステオパシーとの出会いについてまとめてあります。

私が今こうして落ち着いてこのことについてまとめられているのは、オステオパシーの施術を受け、自らの体が治癒力をもって回復を遂げているからです。そして、今回はオステオパシーとの出会いだけでなく、さらにその真髄について知りたくなり、1冊の本を貸してもらったからなのです。それは「気」についての触りの話がいくつか紹介してある本でした。その中には、目から鱗のトピックがはじめから終わりまでびっしりと詰め込まれていました。腑に落ちたり、メイクセンスしたり本当に忙しい経験でした。


9.ついに手に取るとことになった「気」の本

貸してもらった本は『この素晴らしき「気」の世界』という「気」にまつわる人物たちのエピソード集のような本でした。「そんなまさか!」というような内容ばかりでしたが、本当にあったことらしいし、今もそれを極めている人の話を聞くし、実際私の調子を整えてくれた先生の技もあるし、入門者にはとても丁度いいものでした。特に印象に残るのは、合気道の創始者、植芝盛平氏のエピソードや開眼する為の精神在り方、捉え方に関する記述はとても参考になりました。

例えば、皆さんは神社にお参りに行った時、お賽銭を投げて手を合わせて、心の中で何と唱えていますか?「〜して下さい」とか「〜をお願いします」とか嘆願していませんか?それでは、ダメなんですって。根本的な発想の違いがそこにはあるんですね。


10.「スターウォーズ」「魔女の宅急便」「ジョジョの奇妙な冒険」「ドラゴンボール」「北斗の拳」などなど。

この「気」の世界への招待は「インターステラー」を観た(前述リンク先「この宇宙と私」に記載)辺りから不思議だなぁ、と思いつつ意識し始めました。実はNetflixに加入したことにより「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメ版を最初から観ることになりました。それもたまたま友人が「ジョジョ好きで集まって話すのが楽しい」と言うので、では一回観てみようと思った後すぐのタイミングでした。最初はそのツッコミ所満載の映像の作り方の方がつぼでそちらへ注目してしまいましたが、後半落ち着いて考えると最初から「気」を題材にしている作品なのだということに気が付きました。

名台詞「May the Force be with you(フォースと共にあらんことを)」で有名な「スターウォーズ」も「気」のことです。「ドラゴンボール」もそうです。「魔女の宅急便」も冒頭のシーンでそれを仄めかした描写があります。

いわゆるシャーマンや超能力者というのは、鍛錬と気付きがあれば能力やコツが備わり、その辺の人でもなれるのかもしれません。人間が古来の生き方をしていれば。ところが、現代は人間社会が変わってしまった。

「気」に関するスピリチュアルな事などはイロモノとして色眼鏡で見られたり、扱ったり、エンターテインメントの世界の中だけの話のように錯覚させられてしまっているのではないでしょうか。


11.37兆2000億個の生きる意志

人間の体は一説によると、37兆2000億個の細胞から出来ているらしいです。そして、その細胞一つ一つには「生きたい」という意志があるというのです。最近の研究では、臓器同士の「会話」を意味する伝達物質の発見も伝えれていますよね。私の「私」という意識、貴方の「あなた」は、その自意識によってこの身体を「コントロール」しているかと思い込んでいるかもしれませんが、もしかするとそれは全くの逆で、37兆2000億個の細胞たちが生きるために、彼らの組合によって労働させられているだけなのかもしれません。


12.他に誰がこんな旅をしているのだろうか

実際に私の症状を見ていたのは、両親とオステオパシーの先生と、無理矢理外出した時にたまたま視界に入った人ぐらいでしょうか。事情が分かっていない人には、「そういう状況の私(人間)」が目の前にいるという想定もしていないでしょうから、まず理解が出来ないのだと思います。それは仕方ないと言えば、仕方ない。前述した通り「具合の悪い人」は病院にいるものという思考回路があるからです。

当時、私は本当に特殊な状況にありました。

最も顕著にそれを痛感させられたのは、公共交通機関で移動している時間です。とにかく、「1秒コンマ1秒でも早く座りたい」と思うほど、足のスタミナは無く、同時に疲労骨折に似た痛みやリスフラン関節を捻挫した時に似た痛みが踝から足の先までガンガンあるのです。がしかし、見た目はチャラい私服のただの若い男。いわゆる「優先席」「専用席」に腰掛けるというシンプルな行動にこれほどもの環境ハラスメントが存在するのかと思い知らされました。

世の中のどれだけの事柄が「見た目」だけで判断されているのでしょう。また、その人間の生理的情報処理機能を逆手に取った手法や仕掛がどれだけ世の中を占めているのでしょうか。


13.秒速5センチメートルの世界

まだ治っていないのに、私は以前から予定していた東京での視察を強行決行しました。とにかくその頃は、すぐに横になれる環境でないと厳しい状態で、上にも挙げましたが、移動するのが兎に角困難でした。そんなに大量にモノを入れる必要は無いのに大きめなスーツケースを使い、杖代わりにしていました。(撮影の仕事のための機材のリュックが普段以上に重かった…)

一歩ずつ一歩ずつ、足を引き摺るようにというか、石橋を確かめながら歩くかの如く、毎秒5センチほどしか進めない私の孤独さは、猛烈につむじを曲げさせました。別に何かを求める訳ではないのですが、誰にも案ずる声をかけて貰えず、皆素通りするだけ。時計のネジが違う世界にいる人々はなんて冷たいのだろう、と烏滸がましい思考になるのでした。

(そしてそんな時にもドケチは健在で、タクシーには乗るもんかと意固地になっておりました)

変な汗をかきながら、痛みと闘いつつ歩いていると、余計に世の中が理不尽に見えてきます。例えば、バリアフリーの考えが生まれて地下鉄の駅各所にエレベーターが追加工事されていますが、「バリアフリーを必要とする人々の実際の導線」はどうなっているでしょうか。これはもし、貴方が比較的健康な人であれば中々理解出来ないでしょう。なぜなら「導線」はただの道のりではなく「体感」が含まれるからです。

スタスタ歩ける人の感覚で、その人が基準で設計された道。それでも使いにくいデザインであることがほとんどなのに、そこを利用する人の体に不調やハンデなどがあった場合、どれだけの圧があるだろうかということは、その環境に立ってみなければ分からないでしょう。


14.おわりに

「気」をマスターし、強大なパワーを得るには、「感謝の心」がとても大事なのだそうです。かの有名な片岡鶴太郎さんは、毎晩これまでの人生でお世話になった人、出会った人の顔と名前を思い出しつつ感謝の意をもって「ありがとう」と声に出すことを何人分もやるそうです。

人だけではありません。

自分が今ここにあることが出来るのは、自分という形を創り維持させてくれている自分の一つ一つの細胞のお陰でもあるので、自分の体の各パーツに「ありがとう」と語りかけるのも良いらしいです。

最後に、こんなに長々とお付き合い頂きありがとうございました。間飛ばしてませんか?完読してくれましたか?稚拙な文章で恐縮ですが、どうか全部読んで頂けますように。私の人生の気付きが、どなたかの助けになれば幸いです。


参考:この素晴らしき「気」の世界