ゴールドコーストに行ってきました。
- 信号の面白さ
初オーストラリアで一番先に興味を引いたのは、信号のシグナル(特にサウンド)でした。
日本は割と歩行者に優しいのかもしれない。というよりも大らかな国民性が出ているのでしょうか?
オーストラリアは、歩行者信号が青になると同時に独特な電子音がなり、それは思わず徒競走の号砲を聞いた時のような反応をさせます。その後はすぐに信号は赤に変わり、「何か」へのカウントダウンが始まるんです。当然それは横断可能時間の終わりを指しているのだけれど、これがまた短い。おそらく、日本の老人をあの場に連れいて行って「さぁ、渡りなさい」と言っても、ほとんどの人が渡りきれないでしょう。日本の場合は、横断可能を示す青信号のタームが長くあり、いざ「さぁいよいよその時間もなくなりました」という時になるとようやくその状況を点滅で教えてくれるといった具合ですからね。
道路があり、信号があり、車が走り、人が行き交う。
当たり前といえば、当たり前なんですがこれって世界共通の環境条件なのでは?
そこでどんな交通のデザインをするのか。
そこにとてもデザイン性の違い、マインドの違いを感じます。
- 引き波の強さ
ゴールドコーストのビーチは、サーファーズパラダイスと言われており、というかもう、サーファーズパラダイスという住所になっており、サーファーが好むような巻きが出るほどの波が時折、押し寄せる。そんな強大な波と闘うかのように人々は楽しそうに浅瀬へ入っていく。僕は防水でもなんでもないただのカメラを持っていたので、波際で佇んでいました。秋の海へと様子を変えたゴールドコーストの海は、浜辺の奥の方までクラゲを打ち上げるように。当然、僕が佇む足元へも波が寄せてきます。僕の焼け焦げた生身の足は、その水流を確かに感じていたのです。
僕がそこに立っているせいで、その場の砂が抉られて持っていかれ...
この幸せで満たされた砂浜で僕と同じことを思い出している人はどれくらいいるのだろう。
あのおじさんの「あ〜〜あ〜〜」という嘆きとともに記録された流される家々の映像を思い出した人はどれくらいいるのだろう。
- 砂の細かさ
ゴールドコーストの浜の砂は非常に細かい。細かいが故に水が引いたあとは、非常に密度が高く固まる。それは普通に自転車で走れるくらいです。ザクザクの砂とズブズブの砂の間のエリアをサンクチュアリと僕は名付けました。その場所はランニングやウォーキングのコースになったりビーチスポーツの格好のグラウンドになったりします。北海道の海ではまず考えられません。
さらに言えば、滞在中には、この砂を固めて像を作るという発展も見ることができました。確かにstatueとして長時間固めておくには、何かしらの薬が必要なのかもしれませんが...あれ以上、細かい砂がこの世にあるのだろうか。いや、あそこは世界一の砂が集まっているビーチだということ。それだけのことでしょう。
- 言語と間
studio dango 並びに be moss Labで取り組む予定の「間」の在不在を実感できました。
センテンスの構成、伝え方。仮に一人がある事象を体験し、それを英語話者に英語で伝えるのと、日本語話者に日本語で伝えるのとでは、聞き手が浮かべる像はまるで内容が違うだろうと推測します。英語というのは、とにかく詰め込んでくる。間を与えない。間を加えない。言い換えると、いくつもセンテンスを必要とします。合ってますか?逆に、日本語は英語に比べれば少ない単語、少ないセンテンスを用いてフンワリ伝えます。でもその代わり、形容する単語がどのようなニュアンスなのか、という事前の印象の疎通が必要となりますね。
- 衣装、着替えの文化
ゴールドコーストにもバックパッカー向けの宿がいくつかあり、その中でユニオンのような元締め組織があるようで、週に二度ほど合同パーティーを企画していました。同じ宿のバックパッカーたちと集合して出かけるのですが、彼らはちゃんと日中の格好とは変えて、ナイトクラブ用の衣装でいくのですね。というか、ドレスコードは日本のクラブでもありますか。日本の「クラブ行こうぜ〜」という出発前の時間も共有してみたいです。
ファッションとはなんなのか。
ファッションとは、今まで僕にとってはただの着飾り、見栄っ張りだと思っていた節がありました。
ところが、それを揺るがす事件がゴールドコーストのナイトクラブで起きたのです。
それは、一瞬のことです。
僕がカウンターでオーダーの順番待ちをしているときに話していたガールに、
「ていうか、その格好なんとかならんの?ダサいからホテルに戻って着替えてきたら?」と言われたのです。多分。
僕はファッションなんてどうでもよくて、ファッションに金を掛ける価値観が信じられないのですが、一瞬ハッとしました。ファッションで大事なのは、センセーショナルな広告に憧れて購買しそれが自らのオリジナリティーだと主張することではなく、人が主張してきたことに対して批評することなのだと。
また、以前ファッションショーを鑑賞しに行った際に出会ったベテランモデルの女性が話していた言葉も思い出しました。
「なんでわざわざ高価なブランド品を買うの?自分に似合うものは自分が一番知っているはず。その材料を買ってきて自分で作ればいいじゃない」
ファッションという価値観の中には、基本的に常に相手を評価する姿勢があるのだ。自分が批評するということは、自分も批評される。それは自分が思ってきた「見栄」とはいささか異なる発想なのかもしれない。という気づきがあったのです。合ってますか?
何かをオープン評価するという癖が日本人特に北海道人には足りない気がします。逆に、それが強すぎるとメインストリームの餌食になる恐れもありますね。
- stage of the life
「英語を学んでビジネスしよう」という語学学校のコピーを見ました。
価値観は世界中を通しても一人一人違うもののはず。
そのはずなのに、社会の中で生きるということは、何かしらどこかのルールに則らなければいけない。
世界で最もメジャーなルールが英語なのだ。
スポーツマンは、一度フィールドに立てば言い訳できない。たとえベストコンディションでなかったとしても、その中でのベストを尽くすしかない。ただ、私たちには競技を選ぶことができるはずだ。自分のエントリーするフィールドを決めることが。
鶏口となるも牛後となるなかれ。
言語も、商売も、生活も。
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